2回目のクリエイションが行われた。京都、初音館。
梅雨入り、ということで、大抵は雨。しかしたまに猛烈に晴れる。
さて、この期間で考えたこと、スタジオでやったことを主観的に書く事にする。
京都にいるけど「やよい軒」に行く確率が高い。ということになって、その日は天気がよかったので、みんなで散歩がてら散策すると、そば屋があったから、「いっかここで」とか言って軽いノリで入ったら、創業明治38年って書いてあった。どうもすみません。
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さて、スタジオに戻る。
パフォーマンスについて、我々演出家は2つのことを同時に考えなければならない。
作品を作るための「方法論」と、内容を支配する「主題」である。
どちらが欠けても作品は成り立たない。少なくとも僕にとっては。しかし、こういう問題を整理して書こうとすると、なにしろややこしい話になる。難しい話になる。面倒な話になる。理屈っぽい。
でも書く。
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「物語の分断と連続、つまり夢の構造」
夢を見て、朝起きると、頭の中にその不条理な出来事を思い出し、「一体あれはなんだったのだろう」と思う。おそらく皆そう思うだろう。なんで「加藤夏希とカフェでデートしていたら、私はスパゲティーだ、と言われ、ピアノなんて弾けないのにピアノ・リサイタルの代役をやらされることになり、どうやってごまかして演奏するかと悩んでいる自分がいて、夜の祭りで買ったたこ焼きにはアサリも入っていて、しかも巨大で食べきれなかった」のだろう???まったくもって意味が分からない。
こういう話を聞いたことがある。「夢の各シーンを繋げようとするから意味が分からなくなるのです。夢というのはイメージの分断だから、全体の意味を考えても意味がないのです。」
たしかにそうだ。舞台も同じく、鑑賞者は各シーンの連結とその意味を求める。さっきのシーンで「相原」だった男が、次のシーンで男の「相原」が出て来て、続きを演じてしまうと「あれ?さっきの相原って誰よ???」となる。しかし夢の構造では、それが正しいのだ。
我々は今起こっている事を前後関係で認識しているようだ。いつも相対的に判断するしかなく、絶対的に判断する事を恐れてしまう。
映画はこの夢の構造をビジュアル化できる表現形式を持っている。例えば、イタリアン・ゴシックホラーの奇才ダリオ・アルジェント、ウネウネと現実と夢を交差する映画監督デヴィッド・リンチ、日本で言えば鈴木清順。などなど。
舞台でこの構造ができないか?といえば、それも可能だろう。安易に各シーンの連結を「カット編集」みたいにしようとすると、暗転して次のシーン、という連続になり、観客はこの暗転中に飽きてしまう。草原のシーンから、暗転して、部屋の中のシーン、と変わっても、暗転というリアルな時間を体験しているわけだから観客のイメージはジャンプしない。暗転した瞬間に今のシーンが終わったことを理解するし、次のセットチェンジなんだな、と思うだけだ。
では、どうするか?
それをこのパフォーマンスでは作ってみようと思う。
南アのシードル「サバンナ」を飲みながらワールドカップを見る。スタジオの夜。
クリエーション合宿なので、みんなでスタジオで寝る。
「ダンス作品で見たいもの」
ダンス、という言葉に、ダンス関係者は敏感だ。そして「これはダンスだ」「これはダンスではない」という議論に発展する。その結果、ダンサーの多くは「身体を表現したい」とか言い出す。勘弁してくれ。そんな不毛な議論にはうんざりしている。しかし、つい自分もそういう議論をしがちだ。反省している。
僕はダンスに何を求めているのか?
このクリエイションでもそのことを相原マユコと話し合った。自己分析してみたところ、こういうことだ。僕はダンスを見るときに、まず物語や意味とかそういうことではなく感動できる作品が好きだ。バレエなら細い針のようにシャープな先端の動きや全員のユニゾンが揃って一体化していたり、あるいは、見た事も無いすごいジャンプをするソリストに感動する。舞踏であれば、なんか知らんけど体だけでスゲエことしてるなぁ、とか。うわ、全然動かないよ、とか。感動するとその次に少し冷静になって「あのダンスはどんなメソッドで作ってるのだろうか??」と考える。バレエなら徹底したバレエテクニックだろう。あのテクニックとあの体を維持するために、スゴい練習と食生活の調整とかしてるんだろうなぁ、と。もちろんバレエテクニックにもいろいろあるだろうから、バレエテクニックをどう解釈して展開して、この作品が出来てるんだろうか、と考える。
コンテンポラリーダンス、と言われるものへの疑問はここにある。どんなにも見ても「どんなメソッドでこのダンスがあるんだろう?」と考えさせてくれない。かといって、物語やコンセプトで考えさせられるものもない。しかし振付家はダンスの振付をして、実際に舞台でダンサーが踊っている。となると、この作品は一体なんなんだ???思い切って「あなたのダンスの背景なるメソッドって何ですか?」と聞くと、ほとんどみんなが「?」となる。あるいは「特にメソッドとかはないです」という。経歴を見ると欧米のダンスカンパニーに参加したりしていて、そこのカンパニーの舞台を見てみると、なるほど、同じような動きをしている。ってことは、ここのカンパニーの影響を受けて、その人はダンスしてるんだな。ということは、メソッドあるじゃん。「このカンパニーのメソッドをあなたはやってるんだよ!」と。
こうやって書くと「影響を受けてるだけでオリジナリティーがない」という非難に聞こえてしまうかもしれないが、そういうことを言いたいのではない。そうではなく、多くが自分のメソッドやテクニックを自己分析していない、ということに対する批判だ。
例えば「自分が作品を作るときには、3日断食してから作ります。」とか、これもメソッド(方法論)だ。「ああ、だからああいう表情ができるんですね!」と作品の謎が解けるかもしれない。
今回のリハーサルで、ダンスのシーン、というのを考えた。そのとき、どんなルールでこの動きが仕組まれているのかに焦点をあてて創作していった。その結果、動きそのものが面白いものになった。演出的な効果で面白くなるダンス、ではなく、動きそのものが面白いダンス、という意味で。こういう作業がどんどん出来ると、僕としては、ダンスの素晴らしさが人に伝わるように思う。
「主題は超個人的でなければならない。」
ワークショップや大学の講義で受講生に「作品を作りなさい」という課題を出すと、「社会と自分」をテーマにした作品が出てくることもある。これはかなり良いことだ。しかし毎回惜しい。そこで描かれている社会が「概念としての社会」であって、なぜか具体性がない。そこに描かれている「自分」は、おそらく本人のことを指すのだろうけども、これにもリアリティーがない。一体「どの社会」と「どの自分」を描いているのか?と質問すると、彼らは答えられない。
僕は、その社会が「自分のバイト先の話です」でいいと思っているし、むしろ作品作りの始まりは超個人的キッカケが満載であってほしいと思う。そこに自分というリアリティーがあるのであれば、日本のこと、世界のことなど、無理して考える必要もない。誰だったか、戦後の小説家の台詞に「小説を書く事は、銀座四丁目の交差点で裸で寝ることと同じだ」と。作品というのはそうであってほしい。言いたい事を言うために作品があって、言いたくても言葉では言えないことをパフォーマンスにする、ダンスにする、映画にする、音楽にする、ということであってほしい。そして自分もそうでありたいと思っている。
昨年の大学の講義で「MONEY(お金)」をテーマに作品を作りなさい、という課題を出したことがある。ほとんどの学生が「お金=悪」という視点で作品を提出してきた。本当だろうか?お金に関する嫌な思い出があるのだろうか?メディアの刷り込みで「金儲け=悪」という概念を盲信しているだけではないか?本当にお金が悪なら、資本主義など成り立たないではないか?資本主義は本当に悪いのか?君たちはお金が欲しくないのか?それとも人をだましてお金を得たことがあるのか?「どうしてお金というのは、悪の象徴なのか?」という議論が作品作りの際に行われたのかどうか、というと、そういう議論はあまりされていないのが実情だった。少なくとも「お金だーいすき!」と言って、万札をバラまくパフォーマンスをした受講生はいなかった。「お金」というこんなに身近なテーマにもかかわらず、自分のことではなく「社会の説明」「一般論の解説」をしようとしてしまっている。だからリアリティーがなくなる。まずは「大きな社会」ではなく「自分」と向き合えば良い。そこには嘘がないのだから。「今、自分の財布にいくらあるか?」「お前、いくら持ってる?」というところから始めて良いのだ。だから、僕自身の作品にも、まずは「自分」から始めていくことを肝に銘じたのである。
こんな具合で進む。振付作業のとき、
僕はヒマなので、居眠りする。
「家」
飯名も相原も「戦争」を経験したことがない。サラ金に追い回された事もないし、殺人も経験していないし、誘拐されたこともない。労働組合のデモに参加したこともないし、テロの現場に居合わせた事もない。「今回のクリエイションで作品の主題を決めておきたい」ということになり、お互いがリアリティーをもって対峙出来る主題は何かを探った。どんな話の流れだったか、なんやかんやと話しているうちに、結果「家の問題」があった。詳しいエピソードは、また次回。家の問題、これは誰しも抱える問題だろう。家には人が住み、そこは家族もしくは血縁の居場所である。
山田太一脚本のドラマ『岸辺のアルバム』では家が丸ごと多摩川に流れ、アンドレイ・タルコフスキーの『サクリファイス』では家が丸ごと焼けていく。ディズニー映画『カールおじさんの空飛ぶ家』ではジジイが家ごと空を飛び旅に出る。
家の崩壊は、単に物理的な居場所を失う、ということを意味しない。その中の家族や人々の関係をも変容させる。家の価値を誰もが信じているからだ。それは人道的には良いことで、資本主義的には騙し合いのキッカケにもなる。
リハーサルスタジオで「お前っちって、どんなだったー?」という話をし合ったところ、「えー!それってドラマみたいな話じゃねー?」というエピソードが満載だった。「どこの家もそういうもんだと思ってたからなぁ」「ようやく最近になって、それがトンでもない話であることが分かった」とか「それがトラウマでなんか今も引きずっているんだよなぁ」など。
「写真家・平野正樹」
僕は写真家・平野正樹の影響を多く受けている。残念ながらこの写真家のことを知らない人の方が多い。いろいろな作家と出会ってきたが、この人ほど僕に影響を与えた人はそういない。
元々、相原マユコとの作業で僕が提案したのは「平野正樹の写真が表現しているもの」への解釈を舞台作品としてどう扱うか、ということだった。
平野正樹は『人間の行方』と題した作品シリーズで、一切人間が登場しない写真を発表してきた。そのすべての景色は「人間がしてしまった行為の残骸」とも言える。しかしその風景は、死んだ土地、ではなく、人がまだ生きている形跡を感じる不思議な写真だ。ずいぶん前に平野正樹に会ったときに「人間の多様性」という話をしてくれた。「人間には多様性があるんだよ、イイナさん」と熱く新作のアイディアを語ってくれた。そのアイディアに僕は感銘を受けたのを覚えている。作家とはこういう人のことを言うんだな、と。そして彼は写真だから出来る事、写真にしか出来ない事を追求し、実践していた。
平野さんは資本主義についての「価値」を問う作品がいくつかある。満州国で使われていた紙幣や株券を撮影した作品を見せてもらったとき、こう話してくれた。「イイナさん、これ何か分かる?これの株券は満州国で使われたんだけど、今日で終戦です、って言われて、戦争が終わった次の日には価値がゼロ。パーになった。ただの紙切れ。資本主義の価値ってそういうものなんだよ。やってらんんねーよって話だよな・・・でもこれが事実なんだよ。」
平野さんについては様々なエピソードがあるので、今度ゆっくり彼の話を書きたいと思っている。「人間の行方」というシリーズの説明だけ書くと、平野さんは人間を非難しているように思うかもしれないが、彼はかなり「人好き」である。と僕は思う。補足。
平野正樹の写真を使って舞台作品を作る、ということではなく、この考え方を取り入れてパフォーマンス作品を作りたい、というのが、僕と相原マユコのアイディアだったし、始まりでもあった。平野さんからも「写真で出来ることは俺がやるんだから、イイナさんは舞台で出来ることやらなきゃダメだよ」と言われたことがあった。
平野正樹という作家が写真を通して問いかける「人間」「価値」「多様性」。主題探し、というのは、寄り道が多い。寄り道しすぎて、迷子になることも多い。「家」という題材は、この始まりに嘘なく戻れた。
さて次回は、映像を使ったシーンを実験したい。