すこし話は変わるが、時間軸が狂う、で思い出した。
カフェに大きな液晶TVがあって映像が流れていることがある。映像には時間軸があって、始まりと終わりを多くの人と共有できる。カフェで過ごす時間は始まりと終わりがないから、写真をめくるように、早くめくる人もいれば、ゆっくり1枚の写真を眺める人もいる。映像の流れているカフェはどうも落ち着かない。というか、嫌い。
舞台芸術にも時間軸がある。多くの人が始まりと終わりを共有する。客が一人だとしても。美術館の彫刻とは違って、悪く言えば観客に時間を強要する。それが嫌いだ、という人も多い。そういう人たちは、よくカフェでダンスをしたがる。「カフェとダンス」。僕にとってその2つは時間軸の対局にあるものだ。僕はカフェで時間を忘れたい、と思う。忘れたい、というよりは自分の時間を過ごしたい、ということかもしれない。そこに時間軸を共有しなければならないもの、ダンスや映像、が入り込むと、焦燥感が強まる。落ち着かない。
カフェでダンスをする人たち、したがる人たちの言い分は「劇場よりもカフェのような日常的な空間に異質なものを入れ込みたい」とか「もっと多くの人にダンスを知ってもらいたい」と言う。劇場の舞台にカフェの舞台美術を組んでそこで踊るんだとダメなのだろうか?ハプニングアート的にダンスを日常に入れ込みたいのだろうか、もしそうであれば、寺山修司の天井桟敷のように、ケッタイで明らかに異質なものを事件として日常風景に入れ込むくらいの事がないとハプニングにならないのではないか?パブリックアートは「その作品が持つ時間軸」と「展示する空間が持つ時間軸」とを考えなければ成立しないはずだ。
「カフェとダンス」で一番印象に残っていて面白かったのは、「指輪ホテル」がイベント期間だけオープンしたカフェ。ずいぶん前。前橋だったか。前橋の「踊りにいくぜ」のイベント。たしか。
僕は公演を一人で見に行って、上演までに時間があったからそのカフェに入って、ベトナム珈琲だったか、なんかそんなようなものをウェイトレスのお姉さんに注文すると「珈琲ですね」と普通にニコッとされて。はい。前払いなんです。ということで、先に500円払って。ぼけーっとカフェから見える外の風景に視線を向けたら、なんかウェイトレスがクルっと回ったような、気がした。なにげなく振り向くと特に何も変わりなく普通のカフェ。お客さんも普通。しばらくして携帯電話でメールしてると「パン!」と遠くで手を叩く音が聞こえて、振り向くと特に何もなし。要するに、ウェイトレスがたまにクルっと回ってみたり、手を叩いてみたり、というパフォーマンスをするわけだが、僕に直接的な危害がないパフォーマンスだから「なるほど、そういうことか」と気がつくと、心地良い。気が向いたときだけ「風景」としてウェイトレスをみて楽しむ。珈琲を持って来てくれるウェイトレスは、ダンスしながら持って来るわけでもないし、僕の目の前でダンス始めるわけでもない。安心。親切。スローモーションのように時間や関係が宙に浮いている。写真集や小説を読むような。
演出家の羊屋白玉さんのトークで「このカフェは視界のギリギリの、見切れるくらいのあたりで見えるダンス、というのを目指した」というようなことを言っていた。カフェでダンスをする、という行為が丁寧に演出されている空間だった。カフェという空間と時間が、ダンスによってデザインされていた。
こういう心地よい「ダンスとカフェ」の空間はなにしろ稀だ。いろいろアーティストがダンスと絡めたカフェを色々やっても、どうもカフェよりもパフォーマンスが主体で「時間の強要」が心地悪い。だったら劇場でやればいいのにな。馬鹿だな。と思う。そういう自分も、ずいぶん昔にはカフェでのパフォーマンスを企画したり、いろいろやって来たから自己反省がある。ああいうのは意味なかったな、と自分で思う。馬鹿だな、と思う。


